湯長谷の日記

佐々木蔵之介さんを推しています。蔵之介さんがかわいいとだけ書いてあるブログです。

舞台『守銭奴』の感想

冬のライオン』から半年とちょっと、2022年もあっという間だったなあ…と思っていました。今年はなんだかずっとバタバタしていて、蔵之介さんが単発でドラマに出ていてもあまり追えない感じがあり、この『守銭奴』だって事前に出てるいろんなインタビューもじっくり読めてない状態、せっかくの現場だというのに「このお洋服、お芝居を見にいく時に着ようと思うの、うふふふふ」みたいな買い物もせず、せめてダイエットくらいするのがオタクとしての責任と思いつつもあまりがんばれず、この祝祭をいまいち盛り上げきれなかったなあと自分自身に対して謎の自己嫌悪を抱きながら秋も深まる11月某日、池袋に馳せ参じました。


でもね、劇場について、席に座って、「もうすぐ始まるなぁ」と意味もなく緊張して、そして、お芝居が始まったら、そんな余計な気持ちどこかに吹き飛びました。


忙しかった今年1年なんて忘れてしまおう、ここからが祝祭、隅から隅までお祭り。何かを大好きになって(例:プルカレーテ×佐々木蔵之介の『リチャード三世』)、それに対するニッチな愛情(例:プルカレーテ作品に出演する佐々木蔵之介、最高では??という信仰)をこじらせ温め続け、そして、念願かない、いつかいつかと願っていた曼荼羅をついに自分の目で見ることができるなんて、これを幸せなオタク人生と言わずして、なんと言うのかな。


守銭奴』の原作については、観劇前にさっくり読んでおきました。もし宇宙物理学級に難解な演出されちゃって、初見じゃついていけないわ…てことになったら、もったいなすぎるでしょう?だけど、そのあたりは割と杞憂で、ストーリーとしてはシンプルな喜劇だし、プル版もストーリーの流れは基本的に原作をそのまま追っているし、わかりやすかったと思います。


無予習派の楽しみ方もきっともちろん最高なのだと思うけど、私自身は活字で読んだ既知のストーリーが、幕が開くのと同時に立体化して色を持ってこちらに迫ってくる瞬間の「劇場に来てよかった!!」という高揚がたまらないのだろうなと思っています。今回は、アルパゴンの娘エリーズの登場の時が一番それが強くて、「あなたがエリーズなのね!!」って心の中で叫んだよね。ありがちな言葉を使ってしまうことを恥じながら書くけど、ああ、そうなのか、機能不全家庭で経済的DVを受けながらずっと生きてきた、毒親に強固に支配された長子なのか、という気持ち。エリーズは妹なんだけど、見た人にはわかってもらえるのではないかしら、あれはもう確実に、おかしな家庭の長子ポジション。
エリーズはよく笛を吹くのだけど、あの、調子っぱずれというか、音を鳴らすだけで頭の中をかき混ぜられるような不安感が広がる感じがよい、ああ私はついにプル組を見に来たんだなってなった。淡々と真面目に反復練習をしているのだけど、そもそも笛のピッチが狂っているから、その楽器でいくら努力してもしょうがない。彼女のおかれている環境が狂っていて、その中での秩序に順応しようといくら努力しても何もよくならないのと同じ。


順番が前後するけど、彼女が持つ楽器もお芝居が進んでいくうちに変化していくのだけど、マリアーヌがくれたピッチの正しいリコーダーは「ベストとは言い難いけど、何かしら変化が起こってるととらえてよいのではないか、少なくとも、以前の笛の時よりは少しましになるような変化が」と思わせてくれるし、最後のサックスに至っては「いろいろぶっ飛ばして、狂気!!」って感じがするし。


それはさておき、最初のほうでエリーズとクレアントが話す時の場面も、この兄妹もたいがい歪んでるなと思わされました。異常な家庭で励まし合って生きてきて、過度に依存しあってるのか、というか、ちょっと距離感がおかしいような表現をいいテンポ感で乗せてきてくれて、巨匠ったらそういう狂いをさらっと差し込むのねと思いました。


あと、半透明のシートを客席に対して垂直に使って部屋の仕切りにするのがよかったです。これ、座席によって見える角度が違うから、話しているキャストの姿が隠れてしまって見えないことも多いんです。それが家の中で秘密の話に聞き耳立てている感じを出していてよい、とてもよいのです。


エリーズ像も目から鱗だったけど、クレアントも、言うてもこいつ人生に対して甘えとるな、と思うところもあるし、ジャック親方を殴ってるヴァレールなんか明らかにやばいし、私は運命に翻弄される籠の中の小鳥ですみたいな顔しているマリアーヌだってあれはあれで結構欲深いし、アルパゴンだけ煮ても焼いても食えない嫌われ者というわけではなく、みんなどこかしら問題ありだったわ、好きです。


あと、すっごく個人的なフェティッシュなのですが、

  • 不穏な感じで舞台の外での死を示す(丸焼きにされる豚)
  • 緊張感高めの時に出てくる透明のビニール(箱を盗まれて彷徨うアルパゴンが持ってる)
  • サックス

あたりに必要以上に拡大解釈の過剰反応をいたしまして、プル様のファンサの御心に額づいてきました。幕が開いて戯曲が3D化したと思ったら、ちょいちょいリチャ舞台の幻覚が見えて、私の心が時空を越えて発狂してしまったので、なるほど、これが最近流行りの4Dなんだな〜と思いました、違います。プル様も『リチャード三世』で狂わされた信者達が阿片を求めてゾンビみたいに池袋に集うってわかっててそういうのを差し込んできてるんでしょ??そういうのどうかと思うよ?(もっとください)

歌舞伎っぽさもあったから「巨匠!ここはスカプリの舞台ではございません!」って思ったし(『スカーレット・プリンセス』のプロモーションで使われてた「スカプリ」っていう略称、じわじわ気に入ってます)、もしかして『真夏の夜の夢』堕ち勢向けのファンサもあったのかなと思ったりもしました、どうなんでしょう。


今回は(今回も)、建物や部屋を構成する仕掛けに、明かりや影が透けて向こう側の雰囲気がわかるくらいの半透明のシートが使われたり、警察の捜査のくだりでジャック親方が半透明のカーテンの中から様子をうかがっていたり、ちょいちょい半透明シートが登場していました。お互いのことを覗き見ることはできるのだけれど、お互いを混じり合うことのない、相入れないものにする素材。巨匠、あの無色のアイテム、なにかと好きよね…って思いました。


話を進めまして、建物の仕掛けの半透明のシートが落とされた後くらいから、もうね、やばいです。実は、室内の仕掛けがある場面の流れの中で、失礼ながら「今回の演出は思ったより薄味かな?」と思っていたのですが、ほんと、私って愚かですね、ジャンピング土下座しますね!「プレイハウスって奥行広いんだなあ…」なんてことをぼそっと思いながら、あの荒涼として明らかにやばい風景がとてもきれいだと思い、その中でうごめく明らかにやばいアルパゴン込みで「好きです!!」ってなりました。

観劇直後の自分のツイートを見返すと、あの建物の仕掛けが落とされる前と後で前半&後半みたいな理解だったみたいだけど、振り返ってよく考えるに、仕掛け落ち以降は時間的にはだいぶ短いですよね。決して折り返し地点ではないはず。だけど、自分の気持ちの中ではあの場面以降が精神的にボリュームが大きすぎて作品の大半を占めてしまったんだなという理解です。


これ、私が原作を読み間違えていたら本当に恥ずかしいんですが(言い訳する前にもう一度ちゃんと読めばいいのでは)、最終局面のあたり、原作ではアンセルム、ヴァレール、マリアーヌは本当にやんごとなき身分だったのだけど、プル版では例の場面でのクロードさんのあの美味しい登場によって、あの辺りの狂乱は全部フロジーヌの婆さんがでっち上げた芝居だったという解釈に変化したのですよね…?すごいですよね!!そうなると、アンセルムとフロジーヌのダブルキャストも、ただシンプルにダブルキャストっていうより、あの場面の演出家であるフロジーヌの呪詛の具現化なのではみたいに見えてくる。


あとは、ヴァレールとマリアーヌの腕輪も好きでした。原作みたいに、本当にこの兄妹が子供の頃船に乗っていて難破したことがあるような世界線が存在するとしたら、その腕輪と称される手錠ってやばくない??船の中でどういう状態だったの??もしかして、君らの子供時代もやばかった??みたいな想像が心の中で一瞬浮かび上がります。


最後の最後の大団円的シーン、アルパゴン以外の登場人物のグループが「私たちの愛が勝ったのよ」みたいな雰囲気出してくるけど、はて、そっちのグループが本当に疑うことなく幸せな勝者なのかな、という気持ちはうっすらと残されます。古典の喜劇を楽しむのだから、ここで「恋を成就させたリア充達、よかったね!守銭奴のおっさん、みっともないねえ、あはは!」と手を打って笑って帰宅すればいいのかもしれませんが、恋愛とか結婚こそが疑うことのない幸せの規範であるみたいな物語は2022年の時点ではもはや絶滅が危惧されている状態なので、この時代に古典を再解釈した際に、そうやってモヤつくのもあながち悪いことではないと思います。


アルパゴンが孤独だとか醜いとか不幸だとか、一律に決定できるものでもない、少なくとも、誰の目も気にせず、あの大切な箱が自分の腕の中に戻ってきたことに恍惚としている彼の喜びや安堵を見たら、彼は言うほど不幸ではないよな…と思ってしまいますし、そんな疑念に説得力を与えてくれるのが、うちとこの推しのパワーですわ!


アルパゴンの喜びをインスタやFacebookに載せてもいいねされることなく、スルーされるだろうなというのは間違いないのですが。


ものすごく個人的な想像ですが、インスタ映えしそうな幸せを手に入れたあの2組のカップル、結婚数年後には、ヴァレールのほうは奥さん殴ってると思うし、クレアントのほうは若い踊り子かなんかに熱を上げて真実の愛がどうのこうの言って駆け落ちのための借金こさえてそう。幸せはいつもその形を変化させていくし、どの幸せが正しいかなんて誰にもジャッジできない。


あとは、プル組を楽しんでいる手塚とおるさんがすごくよかったです!以前目にした還暦記念の幻のツイートの中で書かれていた、手塚さんのプル様に対する愛の吐露にすごく感銘を受けたものです。最後には道化になった手塚さんの、くねくねとしている様子が愛らしくて「それ、一番近いところでプル様の舞台を道化として観察できる幸せにニヤついてるんじゃないの?」なんて勝手に妄想してしまいました。

舞台『冬のライオン』の感想

すごい…

 

何がすごいって、まず、あのセリフの量とテンポがすごい…

プロの役者さんを称賛するのにそんな稚拙な表現あるかいなと思われるかもしれないけど、いやもう、まずそれ。

 

そして、感情の強さがすごい…。みんな、そんなに感情をたぎらせて生きていたら長生きできないよ?人生、いろいろ折り合いつけていこう?

 

蔵之介さんの舞台を年一で見るくらいしか劇場にいかない私が言うのもなんですが、観劇って気持ちがいいなと改めて思いました。

誰かの感情が洪水のように自分の中に流れ込んできて、毎日同じことを堂々巡りして考えているような変わり映えのしない自分の気持ちみたいなものを一旦全部押し流してくれる。空っぽになったあとには、あれかな、世界史で習ったチグリス・ユーフラテスの大地のように肥沃な土が残って、何か新しい芽でも出てくるかしら?

 

お話は、イングランド王ヘンリー2世と、権力闘争と感情のもつれで幽閉されていた王妃エレノア、愛妾アレー、3人の王子とフランス王フィリップが、ヘンリーの後継者と領土の問題を話し合うために冬のある夜に一堂に会して…みたいなものです。

 

私にとって、似ているわけでもないのに、いろんなところでシンパシーを感じてしまうのが、恐れおおくも王妃エレノア。いったいそれがどんな情なのか、最後まで全貌はわからなかったけど、子供に向かう強烈な感情のベクトルがあるところが、自分の中にも思い当たる節があってこその共感なのでしょうかね…。

 

もちろん私は、蔵之介さん目当てでチケットを取って、頭の周りにハートを浮かばせながらいそいそと劇場に足を運んでるわけだけど、そんな私にとってもこの舞台の2本の軸は蔵之介ヘンリーと高畑淳子さんのエレノア。

 

あの大仰で芝居がかった振る舞いの全部が全力の嘘、かつ、全力の本音なのだろうと思うと、この人の生命力半端ないな、最強の女王だな(妃だけど)と感じます。さながらThe lion and the lioness in winter!

 

そもそも、この芝居の中で登場人物がそれぞれ嘘を付き合い、常に相手を叩きのめすチャンスや裏切るタイミングを図っている感じを「芝居をしている」という言葉で表現することが多々あるので、そんな時、その入れ子構造にクラクラさせられるというか、私は何を見せられているの、どこを基軸にしてあなた達についていけばいいのという振り回され感が高まって、とてもよい感じです。

 

エレノアが時折、そして、作品の最後に、疲れた、もうやめたいというようなことを言うけれど、そんなことなんて許してくれない感じ、お前は永遠に俺と戦いつづけるんだと求めるのは、お互いがお互いにとっての無二の生き甲斐だという、ヘンリーからの愛の告白だなあなんていうとちょっと括り方が雑でスイートすぎますかね…。

ベターかどうかはわからないけど、これもある種のベターハーフかなと思うと、なんなんだ、この迷惑なまでに疲れる夫婦!犬も食わないよ!

 

なんていうか、蔵之介さんがいろんなところで言っている「舞台をやり続ける理由」というのが、「その時の自分を知ることができるから」みたいな感じだと思うけど(ちょっと言葉遣いとか違うと思うけど…ごめんなさいね)、私も、蔵之介さんがその時その年で挑む作品を通じて自分自身の人生やその時の自分の有様を振り返っていけるような気がする。これがとっても嬉しいこと。

 

例えば今Amazonプライムの『HOMESTAY』をちびちび見ているのだけど、主人公は高校生で、高校生の繊細で瑞々しい絶望や感情を描くのがメインで、これも私から見るといいなあ〜うんうん、みたいな感じはあるけど、もはや実感できない、どこか遠い日の花火なわけです。それに比べて今回のような作品は、いろんな違いはあるのだけど、後ろめたいような共感がある、自分の人生にものすごく引きつけて観劇してしまう。これは、推してる俳優と年齢が近いからこその醍醐味だなあと思います。何を欲しているのか、もはや自分でもよくわかっていない、そもそも出世とか関係ないし、子供がいい学校入れば報われるというわけでもない、ましてや、黄昏流星群をやりたいわけでもない、これからいろんなことを失い、いつか全てが無に帰すということも実感しつつある、でもよくわからないけどまだやってやるぞみたいな、中年の謎のあがきというか、闘争心みたいなものを見せてくれる作品、これからも作ってほしいです。推しと共に年を重ねていけるというのはいいものですね。末長く推させてください。

 

はい、ここで、蔵之介さんの舞台を自分の人生のマイルストーンにしていこうと思っている私に朗報〜!いやーーーーーー!!!長生きはするものだね!!!秋にまた舞台あります!ペース早くない?大丈夫??

ある日突然蔵之介さんが好きになり、なぜ自分は今世で『リチャード3世』(と『マクベス』)を見ることができなかったのかと壁を殴り続けた日もあったけど、いろんな幸運が重なり映像という形で見ることができ、その時も、ああ、長生きはするもんだなと思ったものですが、そんな佐々木・グロスター公・蔵之介を愛する私、この秋、ついに、自分の目で、佐々木蔵之介×プルカレーテを見ることができる幸運をが舞い込みそうです!!!

 

生きる。秋まで全力で生きる。コロナよ、滅べ。そして、世界よ、平和になってくれ、本当に。

 

(ていうか、ほんとにルーマニア、大丈夫…?もちろん、自分の道楽ごとの行く末の話だけしているわけじゃなく、頼むよ、いろいろ落ち着いてほしい…)

 

そして、ここで観劇日記を書く時に必ずどこかに挟みたくなる、Team申大感謝祭パラグラフの始まりです!

 

 

 

こんな感じでチケットに関して強気なのか弱気なのかわからない私、まあ、当然のことながらいつかの段階で発券しなくてはならないのですが、当日の朝うやうやしくコンビニにて出してまいりました。もうなんていうか、Team申への感謝の稲妻に打たれてため息でたよ!Team先行予約〜!感謝〜!愛!!

 

そんなもったいないほどの良席に座りながら、大好きな俳優さんを恥ずかしげもなくしげしげと見つめてまいりました。年に1度発動する、恋する乙女(中年)モードです。気持ち悪くてごめんね。

 

よく響く大好きな声、誰よりもエネルギーに満ちて舞台上をのしのし動くイングランド王。作品のダイナミクスが振り切れるほどに高まる瞬間のあの立ち姿、彫刻か絵画のように、それだけで完成された1つの作品として私の美術館の中に収蔵されました。

歌舞伎はあまり嗜まないんだけど、これはこのお芝居での大見得だなって思う姿、鮮烈に覚えています。コインに刻まれる王の横顔よりもずっとずっとかっこいいですよ、陛下!

 

人間の瞳なんてとても小さなものなのに、どうしてそんなに輝いて、どうしてそんなにも見る者を引きつけてやまないんでしょうね…。蔵之介さんの目のギラつき、今回もありがたくいただきました…!

 

アリーの葵わかなさん、歌声、きれい…!さすが、ミュージカルされてる女優さん。あの歌声で会場が浄化されたのを感じました。ヘンリーから悪意を向けられても「糖蜜のよう」な存在でいられるアリー、ヘンリーからの悪意に全身全霊の悪意をもって向かいあって牙を剥くエレノアと完全に対照的。

こんなにも違う「愛情」を持つ女性2人に受けとめてもらえるなんて、陛下、もてるねぇ。

 

私は永島敬三さんの次男ジェフリーも大好きでした。人前で見せる、目尻をキュッと下げた笑顔と、一人でいる時何か企んでいる時の表情の落差がとてもよい。他者から関心を持たれていない者を表現するって難しいように思うけど、その空っぽさから脱却したいと足掻き続けている感じ、観てる側に刺さってるよ〜!

 

加藤和樹さんの長男リチャード、なんやかや言って長男っぽいというか、形はどうであれ、親への情が他の息子より濃い感じがあります。地下牢でのヘンリーとリチャードの対決、そして、それが終わった後、ジェフリーが速攻で一番に逃げ出していった一連の流れ、好きです。

 

末っ子ジョンちゃんは…みんなのペット!

 

水田航生さんのフランス王フィリップ、白スーツ、すごくシュッとしてた!小顔だしスタイル抜群だし、すごくよいよ〜、よいよい!と思いました。

 

家のことを全部ほったらかしてお芝居を見に出てくることは、今の私にとっては、1公演1回が限度。あの週末のひとときが、私にとっての一期一会の宝の時間でした。これで満足。大丈夫、ありがとう。また秋の公演を無事に迎えられますように!

『君子無朋』感想2回目(※ネタばれ注意)

もう旅公演もはじまって、いろんな都市で上演されている様子やいろんな方の感想も目にすることができて、自分が見ることができた東京公演もずいぶんと昔のことのように感じたりもしています。
私は『君子無朋』は2回見ることができました。1回目を見た時の感想は前回書いた通りです。
2回目も堪能して(そもそも1つの演目を複数回見るという経験が初めて!)また腑抜けのようになって帰宅し、家族の目を盗んで感想でも書き散らかそうかなと思っていた電車の中でびっくり仰天するような連絡を受け、観劇の余韻も吹っ飛ぶような思いになったのは自分のツイートにも書いた通りです…。

 

まったくもうねぇ…。

そんな感じではあったけど、人間、いつか劇場から現実の世界に戻ってこなくてはいけないからね、身も心も。いくつか覚えていることをメモしておきますね!

 

中村蒼さん

中村蒼さんがぐっと濃くなった気がした!何がかしらね、表情?私が見た1回目から2回目までの間に5歳くらい歳をとったように見えたよ、いい意味で!お若いから1つの作品の中でどんどん変化するのかしらって思いました。

クリムト

雍正帝が父・康熙帝と対峙するときのシーン、2人とも立っている時のことだけど、クリムトの『接吻』に見えませんでした?ライトを浴びて輝いている衣装が金色に見えて、背の高さの違う2人の人物が寄り添いあってみたいな感じが。いや、『君子無朋』の2人は寄り添いあってとかじゃないでしょ!と言われるかもしれなけど。

これは全然、表象論的な話をこじつけようとしているとかではなくて、純粋に「連想した」っていうだけの話です。でもさ、こういう、交わらない2つの世界が自分の中で1つのイメージを介して偶然に結びつくとき、自分の中の「美しさを受け取るチャネル」みたいのがザバーって開く感じがあって好きなんですよね。

見る角度

2回目もね、すごい前の方だったのですが、実はね…今だから気持ちも落ち着いて言葉にできるのだけど、1回目が本当に神席!!!!!!!!!!あああああああーーーーーーーーーー!!!!!もうまじ神!!!!!!!!神の見えざる手が見えた瞬間よ!!!!!ていうか、まったく落ち着いて言葉にできていない!!!!!!!!!!!

2回目もね、列としてはかなり前だったのですが、割とはじっこのほうで、これが前の席の方との頭の重なりのせいで微妙に見づらく…いや、贅沢な愚痴ですよね!だけど、後ろの方でもかまわないので、傾斜がついて前の人の頭を見下ろして舞台を見られる席っていうのもよかったかなとちょっと思いました、人間、どこまで欲深なことを思うのやら、猛省せよ!

それはさておき、そんなわけで、2回それぞれの角度から作品を見たのですが、見る席によっても受け取る雰囲気って変わるんだなあって思いました。2回目は康熙帝とのシーンなんて、康熙帝の背中側から見るとすごく無抵抗で無力な老人みたいに見えて、不思議なものだなあ…って思いました。舞台作品は毎日毎日違うものができているだろうし、しかも、見る側のまなざしの数だけ受け取り方があるのかと思うと、どれだけ多面的なのかって途方もないなって思ってしまいました。

あのまなざし

ていうかねえ、見る角度の話の流れで言っちゃうね!これも今だから落ち着いて言えるのだけど(絶対落ち着いてなんか言えない)、1回目の神席の時、ほんとのほんとに、蔵之介さんの渾身のまなざしをほぼ真正面から堪能した瞬間があるんです。今でも、その瞬間のことだけ、はっきり思い出せる…。ふぅ…意外と落ち着いて言葉にできた…。その時のことを思い出そうとすると、あまりに高まりすぎて脳がシステムエラーになるというか、思い出が鮮明すぎて心が虚無になるというか。逆に言葉を失う自分がいるわ。

もうね、意味わからないと思うけど、その時の私、ほんとうに耐えられなくて目をそらしてしまったんです、違うところきょろきょろ見ちゃった…。何言ってるの、頭おかしいんじゃないの、そんなチャンス二度とないんだよ、ちゃんと刮目して見ておいでよって思われるかもしれないけど、やっぱ無理。何度も言うけれど、あんなにも好きな俳優さんがそこにいて、いつも「きれいで怖い目だな~!好き~!」とか言いながらテレビ画面越しに見ていた目に全身全霊の感情をこめ、というよりもむしろ、万感の思いがこもっているがゆえに深淵のような色をたたえた目をして、私との間にさえぎるものが何もなく、こちらを向いているんだよ?!?!?!いやまじ無理、あれを見返せるほどの強さ、私にはなかった…。

あまりにも大きな衝撃が自分の中に沸き起こったから、作品を楽しんでいる意識の流れとは別に、そこだけ別に思い出が1枚の絵のように生成されてしまったらしく、1回目を見終わったあと、あのまなざしの思い出は、あの神話のような瞬間は、ストーリーの中のどこでの話だったじゃろか…ヨボヨボ…みたいな記憶障害が起こってしまいました。2回目見た時、「ああ…きっとこのあたりだね…1回目の私のように本日の神席に座っているお客さん、いのちだいじに…」ってそこでようやくとっ散らかった記憶が統合されたなっていう感じでした。

 

 

今思い出せるのはこんな感じかな。

最近は、子育て業務がハードなのは相変わらず、シャバでの仕事もいろいろ加速して、自分時間をつぎこんでいろいろ勉強していかなくてはいけないことも多く、実は『IP』もついていけていないという、オタクとして自己批判が必要な状態ではあるのですが、今回、心底思ったことは、舞台にいる蔵之介さんは本当に素敵だということ、そして、私も自分が53歳になるころには、この夏の蔵之介さんのように心のままに働いていられるようなそんな素敵な大人になっていたいなということです。

 蔵之介さん、そして、team申の皆様、最高の思い出をありがとうございます!

 

 

舞台『君子無朋』の感想(※ネタバレ注意)

「学生演劇の公演…?」

観劇経験値が低く、東京芸術劇場シアターウエストに入ったことのない私が抱いた、最初の感想です。ちっちゃ!!箱、ちっちゃい!!!!!え?大学にあった、サークルで使えるホールとか、こんな感じだったよ??ていうか、舞台近くない?というようりもむしろ、低い、舞台が低い。そこじゃん、舞台そこじゃん。目の高さにあるんだけど?私の好きな、大好きな、本当に大好きで、その人のことを思えば元気が出て、その元気のおかげで毎日のままならない生活もなんとかサバイブできる、そんなにも私の心の真ん中にいる、大好きな大好きな俳優さんが、今から、そこで、お芝居をする??????????その時、彼と私の距離、何メートル????????あまりの衝撃に、開演まで頭がバグり続けていました。


いろんな方がツイートされていた初日の感想の中で「すごく寒かった」という話があったことを電車の中で思い出して、池袋についてからストールを買おうと思ったのだけど、全然見つからなくて「えー、これ、今日以外使うことあるかな」みたいな微妙なサマーストールを2000円でゲットしたあと道に迷い、いったん変なところから地上に出てしまって、数日前から始まった東京の意地悪な夏の空の下、「明らかにすごく近いところにいるのに芸劇がない!!」みたいな、大の大人だけど今すぐにでも泣きわめいてやろうかみたいな絶体絶命な状態で、これから他人にかなり近い状態で着席するというシチュエーションでは絶対禁忌な「炎天下ダッシュ(即ち、会場に着いてから汗が吹き出す)」をかましながら、なんとか間に合い、開演前にちゃっかり物販もクリア、そして、いざ劇場に入ったら…上記のような頭の中の大混乱ですよ。いやでもほんと、首筋とかから汗つたってたと思う。隣に座られていた方、もしくは、後ろの席から私のそのきったない首を見ていてご不快になられた方、心からお詫び申し上げます。ちなみに、その日の空調の様子はといえば、私の準備運動が念入りだったわけじゃないと思いますが、寒すぎという感じはなかったです。ちょうどよかったと思います。


そんなあたふたとした劇場インではあったのですが、始まる前の張り詰めたような静かな瞬間までには気持ちも落ち着き、いざ、開演…!奥田達士さん、石原由宇さん、河内大和さんの3人がフード付の黒い衣装を着て出てきて世界が始まった時、なんとなくマクベスの3人の魔女を連想してしまいました。この世ならざるものが3人でてきてお話がはじまったらすぐにそんなふうに思ってしまうのは、もうたぶん一生治らない私の悪い癖です。


そして、オルクという雲南の若き地方官役の中村蒼さんが登場し、いよいよ、我らの推し、蔵之介さんの登場ですよ!(ちなみに、このオルクっていう役名は、宮崎市定先生の『雍正帝』で取り上げられているオルタイへのオマージュじゃないかと勝手に思ってる。本を読んでいて思ったこととしては、『君子無朋』どころか、オルタイ、めちゃくちゃに朋じゃん!ズッ朋じゃん!!ということです。)


直前に公表された舞台衣装&メイクの写真が私としては結構な衝撃で、「おお!今回はあえてイケオジ要素を封印してのチャレンジか!」と思ったのですが、これはねえ、ほんとにまさかまさかなのですが、舞台上の辮髪蔵之介さん、イケメンなんです!えっ…この人、辮髪でもイケメンなの…?ってびっくりしちゃった。目力がすごいの、キラッキラっていうか、ギラッギラなんだわ…。中村さんの目も若い光でキラついているんだけど、なんていうかね、すまない、やっぱりこの舞台の主役はうちとこの推しなんだわ、圧倒的存在感。


皇帝が自ら地方官とやり取りをするという政治のやり方、そして、そもそも雍正帝の帝位に正統性はあるのかというところにも疑念を抱き、クーデターを企てつつあるオルクに語られる雍正帝の来し方…という感じでストーリーが進んでいくわけですが、雍正帝の基本衣装は吐血して血が飛び散ってるパジャマ…!ちなみに開演前に見えている最初の舞台装置、書簡と思しきデザインのパネルにも血が散ってます。もうねえ、睡眠負債は命の前借り!寝て!雍正帝、寝て!そういう、モンスターエナジーのがぶ飲みみたいなことやめて!


お話的には、どうしてこんなパワハラ皇帝が誕生したのか、というところを、時間軸を遡りつつ見ていく感じだったのですが、その中で、若い頃の家族への思いみたいのも出てきます。オルクが手を洗ってくれた時、母親のことがフラッシュバックしたりして、情念として家族の愛を希求しつつも、実の母親も結局はひいきの息子を帝位につかせたいと画策するエゴイスティックな存在であり、父親も老いて本当に国の未来のために大切なことが見えなくなっていて、兄弟達も自分の権力のことしか考えていない状態。だから、君子に親兄弟はいないと言い切り、そんな弱くてずるくて不確かな、ある意味とても人間的な存在と自分を断絶させます。


母親の愛への憧れが少し表出するみたいなくだり、ちょっと『麒麟がくる』のノブちゃん(←信長様)を思い出して、切なくなっちゃった。山査子を食べている時の顔とか、繊細な可愛さがあって、あああ…もう…食べたことなかったの?湯長谷のおばちゃんでよければ、買ったげようか??ってお財布の中身ぶちまけそうになった。まあ、それはさておき、こちらの雍正帝がかっこいいところは、ノブちゃんみたいにいつまでも他者の愛を求め続けるとか、承認欲求みたいなものを自分のモチベーションにしないっていうところ。彼の行動の基準は、自分が認められたい、自分が満たされたいという「利己」ではなく、どこまでも「利他」。「他」とは、国であり、民であるし、それらの未来がどうなるのか、どうしたらいいのかというところが絶対的な行動基準だったのだなあと感心するわけです。


パワハラ様と呼ぶべきスタイルではあるけれど、ある意味とても理想的なリーダーみたいに描かれているこの『君子無朋』の雍正帝帝王学が授けられたわけでもない、45歳まで不遇だったこの人がどうしてそんな「皇帝としての資質」を身につけられたのかについてどう解釈するのやらと思ったけれど、やはり、つまるところは、「読書」「学び」が彼の人間性を作ったということなんだろうなというところに私自身の理解としては着地しています。人というような不確かで限りがあるものに依拠するのではなく、書物という窓から見えてくる「あるべき姿」「やるべきこと」を目指すことが正しいことであり、そして、もう少し言うならば、それを通して自分がより大きく、より長らえる存在になれると考えていたのでしょうか。そう考えると、「書物」とそれが示すものこそが彼にとっての「朋」だったのかもとも思ったりもします。


それにちょっと繋がるといえば繋がるかなと思っているのですが、雍正帝の口から出る「美しい」っていう言葉が好きです。私が認識している限り、「美しい」と言われたものは、「漢字」と「オルク」。両方とも、未来へと続くもの。自分が死んだ後も残るもの。自分の身の儚さを知るからこそ、先につながっていくものに光を見るのだろうなあと思いました。


最後は、紫禁城という高みにおいて皇帝としての責務に邁進して一生を終えた雍正帝に、民が暮らす場所に足を運んでもらってみんなの顔を見てもらいたかった…みたいにオルクが思うシーンになるのだけど、「ほほーん、私はね、そういうスイートな感じの幕引きには厳しいんだよ?感動させようとしてるね?そうはいかんよ?」と斜に構えた3秒後に、辛抱たまらんようになって、ダバァーって涙が決壊してしまいました。自分、まじか。あー、もうしょうがない。舞台に渦巻く念みたいなものに押しきられた…。マスクの隙間を通過して落ちていくもんだから、マスクがびちゃびちゃになるのはイヤだ…と思ってわりと焦りました。


あと、どんな取り上げられ方するかなとちょっと気になっていたコスプレ趣味については、「雍正帝行楽図」を使う感じで、実際に蔵之介さんが着替えたりすることはなかったのですが、あのパネル、蔵之介さんの顔を当てて画像修正しているよね?ルイ14世のとチンギス・ハーンのはそう思ったんだけど、もう2枚のは自分の中で確証が持てなかった…。どうだったんだろう?


実はあともう1回見に行きます!2回目はどんな舞台になるかな!

「イチケイのカラス」 最終回

すごく久しぶりのブログ…!


最近、推し事ではなく、実存世界でのお仕事のことでいろいろ立て込んでいて、たぶん、立て込み方自体は世間一般の基準と比べてそんなにひどいわけではないのだろうけど、なんとなく精神的に追い込まれていたというか、ストイックになりすぎていたというか、好きなことを楽しむほうに行動をスイッチできなくて、蔵之介さんを推したりお酒を楽しんだりできていませんでした。まだ、美の巨人たちも見ていないんだよね。

気持ちに余裕ができたら推しを愛でようというスタンスだと、たぶんいつまでたってもそんな日はこない。推し事は人生の余剰ではなくて、人生をよりよく進めていくために必要不可欠な要素と認識して、積極的に人生のタイムラインにブチこんでいく気概が必要だなと感じました。これぞ「けじめ」の概念ですね。毎日やることが続いて落ち着かなくても、1日の終わりにお酒をいただいたり推しを愛でたりして、今日1日がよくてもよくなくても「まあ、なんていうか、私も生きてるだけで偉いな」っていって気持ちよく眠るっていうリズムはとても大事だと思う。


前置きが長くなりましたが、そんなわけで、『イチケイのカラス』の最終回、堪能しました!ゲスト出演ながら、ラスボス感ある最高の役でした!!湖の底から女神様が出てきて「…あなたが好きなのは、白い蔵之介ですか、それとも黒い蔵之介ですか…」って聞いてきたら、どう答えます??私は「甲乙つけがたいですが、黒です!!黒い蔵之介さんです!!!!!」って答えて「…あなたは正直者ですね…」って褒めてもらって両方もらいます!!というわけで、黒い方向の役柄、大好物です!最近でいうところの秀吉っぽさの系譜を感じました。澄んだガラス玉みたいな目なのに、考えていることを透かして見ることを許さない感じとかね!こういう雰囲気の時の下まぶたがいいよね。清濁っていうか、「濁」だけだわね、濁りをたたえた下まぶたの緊張感が好きです、好き…すっきすっきすっきすっきすきっすき〜!く・ら・の・すけ〜!(久々の推し事楽しすぎてテンション振り切れた。)


あと、スーツ、ご馳走様でした。たいそう美味しくいただきました。お育ちのよい背筋(せすじ)が今日も最高でした。ありがたい…ありがたい…。


あと、秘書(←篠井英介さーん!!)がやりました、だけじゃなくて、父親まで切り捨てるという役柄が、語弊を恐れず言えば、すごくかっこよかったです。美味しい、実に美味しい。


続編匂わせみたいなセリフを背負わされていてちょっと笑っちゃったけど、シーズン2とかイチケイthe movieとかあるのかな。


美しく歳を重ねられ、イケおじ感が溢れている昨今の我が推しでございますが、これからこういう感じのラスボスっぽい役増えてくるかしら?好青年とかいいお父さんより、どちらかいうとこういう感じが好きなので、勝手に期待して嬉しく待ってます!

『君子無朋』、そして、かぐや姫は月に帰るのか

ついに…ついに発表されました!『君子無朋』!!
もうあまり蒸し返してはいけないかもしれないけれど、タイトルに関してはとある新聞社さんが若干フライングしておりましたね。まさか去年のあのNHKの番組から着想を得た作品が出てくるとは思わなかった!タイトル、漢文風だなとは思っていたけど、本当に中国が舞台とは、まさかまさかです。

戯曲を書かれた阿部修英さん、戯曲は初めてって書かれてるし、Twitterのプロフィールを隅から隅まで読んでみても普段はテレビ番組を作ってらっしゃる方よね??

 

おもしろいね!!(ちなみに、私、藤田嗣治を愛しています…!!次回のTeam申の公演はフジタでお願いします…)一緒に中国行って、白酒飲みながら「雍正帝って面白いね〜」みたいな話になって、よし、これを舞台にしようと思って、テレビマンに戯曲を書いてもらうって、なんていうか、自由で楽しい!

私はファン歴浅くて、ちょうど2020年の初め頃、人畜無害に日常生活を送っていたら突然何の前触れもなく沼に落下してしまったわけなのですが、オタクになりたてのそんな時期にちょうど件の皇帝の番組がオンエアされて、「寒そう〜!」「楽しそう〜!」と思いながら見ていました。あの頃ちょうどコロナ時代が始まったわけだけど、タイミング的にあれが最後の海外ロケかな?とか、なんだったら、個人的にも最後の海外旅行だったんじゃないの??とか、いろいろ思いを馳せてしまいます。蔵之介さんの旅行好きもあいまってなのか、作品を作る時、その舞台になった「実際の土地」に行くことを大事にしていらっしゃる印象があります。今回はまずその土地に行って、そこから作品ができたという、順番としては逆といえば逆なのが、流れとしてまた趣深いです。いざ作品を作るとなって、じゃあもう一度中国行こう!というわけにはいかないとは思うのですが、あの寒そうな中国を一緒に回った仲間と、楽しかった旅を思い出しながら一緒に作った作品なのかなと勝手に想像しています!

 

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さて、ここから先は、完全に私の世迷いごとですが、ご了承くださいね…。3点リーダ多用します…湯長谷です…湯長谷です…(ヒロシです…風に…)

『君子無朋』のスケジュールが発表されたこともあり、今日は私の心の中のモヤモヤを書き出します…。最近、蔵之介さんの京都回帰が甚だしくないでしょうか…。ミヤコにはじまり、新・美の巨人たち科捜研の女、そして、京都でめいいっぱい上演する『君子無朋』。これはもう、明確な意思があって、「京都にいられる仕事」というものを取りにいっているのではないかと勝手に想像してしまうわけです…。なんだったらもう京都に帰ろうと思ってらっしゃるのでは…?

コロナ時代はいろいろな方面で人の考え方や行動を変えたと思うのですが、その変化の1つに「仕事でやれることはリモートでやっていい」ということがあると思っています。1つの場に集まって打ち合わせしないとだめとか、オンラインで挨拶など失礼千万みたいな考え方はだいぶなくなったと思っているし、世の中で共有されている「仕事の進め方の常識」みたいなものが変わっていけば、「普段いる場所」ももっと自由に選んでいいのではみたいな流れになるのもそうおかしなことではないというか。仕事の話だけでなく、友達と顔をつきあわせておしゃべりをすることも憚られる時代なのだから、「人との繋がり」と「自分の居場所」という要素を完全に切り離して考えて、純粋に「自分がいたい場所」にいるということを選択するのは、それが可能な人にとっては、ごく当たり前の行動だろうなあと思ったりします。ドラマや映画ではない、例えばこの間の偉人の番組みたいなものなら、オンラインで打ち合わせして、収録の時だけさっとNHKにくれば作れるのかなあとか想像したりもします。

別にコロナ時代がどうの、リモートがどうの、という話でもなく、蔵之介さんみたいに、日本中の誰もがその仕事を知っていて、自分の名前と体1つで仕事を呼べる人は、自分がいたい場所を自由に選べるんだと思う。人生の円熟期にそんな境地に至れる人が、この世にどれほどいることでしょうか!素敵…!ご実家のご家族にもすぐ会える場所になるべくいたいと思うのは当然のことだろうし。

しかし、ここで私の感情にまったくもって図々しい寂しさが巻き上がるのです。蔵之介さんが東京を拠点にして(そうなのだと勝手に思っていたのだけど)お仕事をされているのも、京都から蔵之介さんをお借りしているだけ、いつかはお返しすることになるとは思っていたわけですが、いざ、やっぱり京都がいいのかなと考え出すと、なぜか謎の寂しさが…!何この感情!私、東京代表とか都知事とかじゃないよね?私は東京の何なの??(一都民です。)感情が謎すぎる!

気持ちはさながら竹取物語の翁か媼、もしくは帝(恐れ多い)、私も富士の高嶺で焚き火でもしますかね…

お酒日記、春の「古都」と「おりがらみ」

こちらまたお酒をいただいた備忘録です。

春のお酒の小さい瓶をセットで購入できたので、うれしすぎて2セット買ってしまいました!

 

まずは「古都」。

「古都」は連続して季節の原酒ばっかりいただいているので、そのイメージがついている。通常商品を飲んだら「こんな感じだっけ!」とかびっくりしそう。 

 

2本目の思い出ショット。

 

そして、楽しみだった「おりがらみ」。

 

 

ちゃんと利き酒ができる方って、味と香りをわけて認識できるんでしょ?

私は全然わからない!だから、香りがいいお酒のことをぜんぶ「フルーティー」とか「甘い」っていう語彙で表現してしまいます。

まあ、おいしければなんでもよし。